▼ 景気サイクルはいざなぎ景気を超えた。金利は実質0%で、IPOも盛んでこれほど資金調達に困窮する時代もない。失業率は極めて低く、新卒求人は異常とも言える高さで青田刈りどころか、大学三年生で就職が決まるのは珍しくないらしい。

▼ 一方で世界中を覆うこの閉塞感は何だ。第二次大戦で懲りた人間たちが作り上げた様々な仕組みは既に崩壊しかけて、ナショナリズムの台頭は既に世界を覆い尽くしつつある。グローバリズムという言葉は本来は国際的分業によって人間を幸せにする貿易理論であったはずが、単に貪欲なカネを求めてさまよう資本の代名詞をなった。

▼ 飢える子どもたちや人々は加速度的に増え、政治の混乱と相まって他の国に危険を犯して渡り、そこでも邪魔者扱いされている。当然教育など受ける機会もなく、その結果、無知と貧困と差別が犯罪を生み出し、それを恐れる受入国はますます彼らを恐れ、締め出すようになった。

▼ 僕はマルクス社会主義者ではないが、哲学・経済学としてのマルクスが述べた「高度な資本主義は資本家による労働者支配を起こし、過度な技術革新は人間疎外を生む」という通りになっている。G-W-G’(カネは労働者の搾取を通して新しい価値を生む)という単純な数式は、非正規雇用比率が圧倒的に増えて、不安定な生活と雇用を人々に押し付けている現代そのものだ。

▼ NHKで三年間に渡って放映し続けている「欲望の資本主義2017、2018、2019」は、まさしくこの「おかしくなりつつある」世界を映し出している。自分自身への復習も兼ねて「欲望の資本主義」を振り返ることにしよう。

▼ 経済を学ぶものはアダム・スミスの「神の見えざる手」を知らぬものはいない。人はだれもが自分の欲求に従って動いても、マーケット(市場)がその需給調整をし、適正適価で経済を回してくれる。それを「神の見えざる手」と呼んだ。しかし、もはやそれは幻想に過ぎなくなってきている。数多く繰り返すバブルの生成とその破壊による社会不安、一部の留める資本保有者による有利な裁定取引による蓄財、バランスを欠いた経済では正常化するためにケインズ的政策やマネタリズム的政策を打たねばならないことなどなど。「神の見えざる手」の神話から抜け出す必要があるような気がしてくる。

▼ アダム・スミスは「神の見えざる手」というフレーズを述べた「国富論」と同時に、「道徳感情論」という書籍も著している。この内容は「国富論」の理解でありがちな、人はみな貪欲になることで社会が幸せに安定するという内容とは大きく異なる。利己的であるがゆえに、道徳的な適切さを持つことで人は「公平な観察者」としてメタ認知する力が「同感」を生み出し、そのことは人は内面化され、「常識」「良心」による「自己規制」「共感」「道徳」「フェアプレー」の社会を形成するという内容だ。

▼ 思うに「神の見えざる手」を流布した社会は「国富論」「道徳感情論」のうち、都合の良い方だけに着目し、都合の悪い方は無視したのだろう。それがあえてなのかどうかはわからないが。

▼ 最近、風待食堂で書いたと思うが、ヒトは結局のところ、①認めてもらいたいという「承認欲求」と、②それが満たされない時に言い訳をする「認知的不協和の解消」というシンプルな2つの論理にて行きている。そして何よりも不幸なのは、技術革新により誰もがメディアの発信をSNSなどでできることによって、承認欲求を他者に求めるようになったことだ。認知的不協和の解消があるように、実は承認は自分自身に対して向けられなければならないのに。自分を赦すことができずにどうして他者を承認できようか。

▼ 「神の見えざる手」一つをとっても、ヒトの成功がやがては社会の効用を上げるであろうという寛容さをもはや持てない時代になっている。技術革新は情報化時代と呼ばれるものを招くが、そこには見聞きする必要もない多くの情報が混ぜられ「どうしてお前はうまくいかないのだ」と自己を責め立てるノイズも数多く含まれる。人はますます他者からの承認欲求を満たそうとし、時には極端な行動に立つ。しかしそれは、冷静なメタ認知を通して「自己規制」「共感」「道徳」「フェアプレー」の社会を形成するという「道徳感情論」に示された社会を形成しているのか。

▼ そもそものこの生きづらい世の中はアダム・スミスの主張を片方しか理解しなかった(もしくは理解しないように誘導された)ことによるところから始まっているのかもしれない。