《 「反物質」16分間封じ込め 》
 学科としての物理も数学も苦手なくせに、物理や宇宙の話を聞くのが大好きだ。特に最新の驚くような発見や実験結果は、意外にも巨大ネット掲示板として有名な「2ちゃんねる」で語られることが多い。だから、「2ちゃんねる」で話題になったことをまとめて伝えてくれる「まとめスレのまとめ」という要約版をスマートフォンに入れて、毎晩見るようにしている。

 最近、一番興奮したのは、「CERNという世界的研究機構が、『反物質』の閉じ込めに16分間成功した」というニュースだ。これまでの記録が0.02秒間というから、飛躍的な記録である。

 では、この「反物質」とは何か?。

 文系である私が端折って言えば、宇宙が生まれた時は私たちが今目にする「物質」とまるで逆の構造の「反物質」が同量生まれたというのが、現在の定説である。「物質」はプラス電気の性質を持つ原子核の周りをマイナス電気の性質を持つ電子が回って出来ているが、「反物質」はマイナスの原子核の周りをプラスの電子が回っている。「鏡に映っている自分は自分ではなく、もう一つの世界にいる逆世界の自分が映っている」という例えがわかりやすいかもしれない。

 じゃあ、なぜこの世は「物質」だらけになったのか。それは「物質」の方が、ほんのちょっとだけ寿命が長かったのだそうである。「物質」と「反物質」が等量生まれるけど、寿命の違いで「物質」だけの世界に「たまたま」なっている。これが我々の知る世界であり、同時に2008年に小林誠さんと益川敏秀さんがノーベル賞を獲得した「対称性の破れ」なのだそうである。

 「反物質」は「物質」とぶつかると膨大なエネルギーを出す。それは、とんでもない規模の核爆発レベルなのだそうだ。にも関わらず、「物質」でできている入れ物である実験装置に「反物質」を16分間も封じ込めた。一体どうやって?。なんだか良くわからないが、とんでもなくスゴイことであるように思えてならないし、ワクワクする。

《 宇宙戦艦ヤマト 》
 ここでふと思い出すのは1963年生まれの僕と僕らの世代にはバイブルだったアニメ「宇宙戦艦ヤマト」である。

 「ガミラス」という星から放射能攻撃を受けて滅亡の危機にあった地球が、「イスカンダル」という星からの使者に教えて貰った放射能除去装置を手に入れるべく、太平洋戦争で沈んだ戦艦大和を密かに改造して宇宙戦艦にし、放射能除去装置を取りにいく。一見、荒唐無稽な話である。

 しかし、このアニメの背景となる知識としては、相対性理論の応用として語られる「ブラックホール」「ワームホール」「多元宇宙」が当然の知識として出てくる。また、時空を超えるためのエンジンであり強烈なエネルギーを発する武器でもある「波動砲」は「タキオン」という現時点でもなお実験で存在が実証されない素粒子が前提となっている。そして何よりも放射能除去装置という概念が1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故の12年前である1974年に子ども向けアニメで語られていたことに驚く。つまり、理科系的な裏付けがあってのアニメだったのだ。

 宇宙戦艦ヤマトは、いわゆるアニメブームを作るきっかけとなり、そこから多くのサブカルチャーを生み出す。「ガンダム」「エヴァンゲリオン」といった見かけはロボット戦闘ものだが、非常に哲学的なテーマを内包するアニメも生んだし、一方で「となりのトトロ」「ナウシカ」「千と千尋の神隠し」といった牧歌的ながらも、やはり人が生きるということのカルマを語ったアニメも生まれた。こうした多くのアニメが「声優」「コスプレ」「オタク」といったサブカルチャーを生みだし、それがさらに「テレビゲーム」という日本屈指の産業を生み出すに至ったことを否定する人は誰もおるまい。つまり、理科系の裏付けだけではなく、文化系的な裏付けをも背景としたのが日本アニメであった。

《 サブカルチャーとカルチャー 》
 こうした1970年代以降のサブカルチャーを生んだのは、1960年代の週刊マンガ雑誌創刊と学生運動と日本SF小説の勃興であると僕は確信している。

 「われわれは『あしたのジョー』である」と発言したよど号事件の犯人、学生運動が急速にしぼむ中で「個」の世界に入っていった1970年代の若者、そして「SFマガジン」を創刊した福島正実さんと多くのSF作家達。
加えて言えば、NHKで18時から放映していた「少年ドラマシリーズ」で私の世代はジュブナイルSFを知り、坂本九さんの軽妙な語りと辻村ジュサブローさんの魅力的な人形で物語の面白さを知った「新八犬伝」などが、「ストーリーとしてのサブカルチャー」を受け入れる地盤を作ったことは想像に難くない。

 つまり「サブカルチャー」はベースとなる「カルチャー」があってこそのサブカルチャーであり、しばしば「サブカルチャー」は異端的な扱いをされるものの、実はその本質には「カルチャー」という背骨があるということを認識しなければならない。

《 AKB48 》
 最も人気のあるメンバーを選挙で選ぶというAKB48もサブカルチャーである。そのバックグラウンドには、1980年代の尾崎豊さんの歌に代表されるような「校内暴力」があり、1990年代の「イジメ」「登校拒否」があり、そして2000年代に発生した「ニート」「引きこもり」がある。それは浅田彰さんが「逃走論」でお書きになった、「スキゾとパラノ」という言葉で、来るべき新たなサブカルチャーの性格を予測した通りであった。

 さらにはAKB48の背景には、スキゾキッズが「逃走」をする中で美少女アニメやキャラクタ、フィギィアしか心を寄せることができなかったという若者を生み出した社会の変化があったし、一方で、幼女趣味や同性愛といった社会的に認知を受けなかった嗜好が根底にあったことも事実として受け入れなければならない。つまり、「正常」と「(一見)異常」ギリギリのところで展開されるからこそ、日本サブカルチャーは奥が深い。

 さて、そうした「ヒッキー(ひきこもり)」と同世代からも揶揄されていた若者を部屋から引きずり出し、秋葉原での実際の人間であるメンバーとの握手会やライブに招いたという意味でAKB48というサブカルチャーは注目に値する。またそれをリアル世界で実現した秋元康さんの才能には敬服するのみである。

 一方で、AKB48がビジネス的な色彩を帯びてきたこの頃、急速にAKB48離れが起こってきているのも、またサブカルチャーとしての運命を見事にたどっているように思えてならない。

 この「余談」を書いている時点では、大手メーカーの氷菓の宣伝に出ている新人メンバーが実在せず、CGによるものではないかと話題になっている。そして、こうした話題作り自体が最初からビジネスとしてしかけられたものではないかと考え始めたあたりで、コアなファンは静かにAKB48から去り始めているように思われる。それは「宇宙戦艦ヤマト」がサブカルチャーから巨大な利権になったときにファンがとった行動と一致する。

 そういった意味で、日本サブカルチャーは確固たる学問や思想といった「カルチャー(=文化的脊椎)」をベースにしながら生まれて、しかし、ビジネスに転換した途端にコアなファンは離れ、ただ流行に踊らされたマーケットだけが残り、そして崩壊するというユニークな存在である。そこに日本サブカルチャーの存在意義があるように思う。

 先日、重厚長大産業を調査研究している先輩アナリストと話している際に、「重厚長大産業と流通サービス業の差って何かな?」と聞かれた。私の回答は「重厚長大産業の目指すゴールは『高品質、低価格』で固定されている。それに対して、流通サービスは『何が良いものか』の価値基準が流動的で固定されていない。だから、低価格だけが指示されるわけでも、高質消費が支持されるわけでもない。」だった。

 ちなみに日本サブカルチャーの原点の一つをお作りになった日本SF作家界の重鎮、筒井康隆先生がネットで日記を書いていらっしゃる。「家族八景」「七瀬ふたたび」「エディプスの恋人」などの筒井ワールドで青年時代を過ごした思い出があるならば、すぐにご覧になることをお奨めする。

「笑犬楼大通り」
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