▼ 知見ラボの仲間の竹垣さんが、毎週定例のリモート飲み会で中東講義をしながら、こんなことを言った。「欧州や中東の宗教観や思考を調べると、『俺はお前の言うことには反対だが、お前言う意見はキチンと聞く』という考えが根付いている。それに比べて日本はそういう発想や思考がないように思う。実際、東京五輪にしてもコロナ騒ぎに関しても、人の言うことをろくに聞かずに自分の意見のみを言いたがる。『和を以て貴しとなす』というけれど、本当に日本は成熟しているのか。」と。日頃はグラスを片手にワイワイと賑やかな飲み会メンバーが一瞬黙り込んだ。

▼ 正義はひとつではない。そのことは竹垣さんが教えてくれる歴史や地政学を中心としたリベラルアーツの話を聞いて思うことだ。繰り返す、正義はひとつではない。国や地域や民族や人やそれぞれ、全員にとって正義は違う。そしてそれは、異論を言うことは許されても、否定することは許されない。願わくば、異論を語りながら、より近い着地点に持って行けるのが最も素敵だ。

▼ 自分は企業の人材育成や研修に関わる仕事をしている。多くの人事部や研修部や人材開発部といった育成部署は、真剣にヒト資源のことを考え、どうしたら企業の利益や成長と個人の幸せが両立するかを考えながら、様々な角度から研修等の仕組みを作っている。従業員の評価にも関わる部署なので、非常にデリケートな仕事だし、その気の使い方も尋常では無い。

▼ しかし、しばしば受講生となった企業人に話をコーヒータイムに聞くと、「研修なんて意味ないっすよね」という類いの言葉を聞く。うん、確かに自分もサラリーマンの時は研修なんて眠たいだけだった。いまでこそこの仕事をしているから、どれだけの努力をして人財育成が考えられているかわかるのだけど、当時はそうではなかった。そのことを考えると、コーヒーを一緒に飲みながら曖昧な笑顔を浮かべる自分がちょっと情けなくなる。

▼ 正義はひとつではない、と言った。研修や人材育成を担う部署にはその部署なりの正義があるし、貴重な就業時間を割いて研修を受ける受講生には受講生なりの正義がある。本当はお互いがどういう考えでそれら正義を持っているかを話し合う機会が多ければいいのだが、なかなか難しかろう。特に人事部とかは日本の多くの企業ではあまり接触しない方が良い部署だと考えられているから。

▼ 研修が無駄だと思う受講生の多くは「実際にビジネスをしてカネを稼いでいるのは俺たちなのに、その俺たちに論理やらなんやらを時間使って教えていい気でいる研修のカネは俺たちが稼いでいる」という自負がある。一方で、研修部や人事部の人間は「その職場での人間関係や成果を上げるためのベースを改善するために一生懸命頭を捻っている」となる。だが、残念ながらこの考えは交わらないようだ。勿体ないといつも思う。

▼ 正義が一つではないのは、冒頭の宗教や民族や国家でもみな同じだ。相手の正義についての主張を聞き、自分の正義と何が違っているかを理解しようとして、一歩でも歩み寄ろうとすること(迎合する必要はない)、それこそがこの移ろいやすく、しんどい世の中で幸せに生きる一歩であるような気がするのだが。

「寛容性と正義」への2件のフィードバック

  1. 素晴らしい。
    「正義は一つではない」
    理由含めた本音トークに共感しました。

  2. 「君子は和して同ぜず」とあるように本来の「和」は主体性を前提とした協調行動なのですがどうも我々は協調ならぬ同調になっているように思えます。
    そして怖いのはその「和=同調」が事実ではなく単なる思い込みであること、そしてその思い込みが夫婦生活から国際関係までいろんな騒動を起こすことではないでしょうか。

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