以下、「欲望の資本主義(1)(2)」を踏まえて、広告代理店に勤めていたAさんと風待食堂の店主とのやりとり。

▼Aさん: 年収300万円時代を予言した、経済評論家の森永卓郎さんの最近の「とてつもない大転落※は、なかなか良いインタビューじゃないかと思うんだよね。あなたが、ここのところお書きになっている「資本主義の基本概念が変質してきたのではないか」ということと似たことを彼も考えているように思うんだけどね。

▼店主: 僕もちょっと驚きました。森永先生のご意見は極端なものも多くて、サプライズ狙いみたいなところも感じることがあるのですが、「社会学的な視点」を付与することでそうした極端なバイアスが中和された感じですよね。

▼Aさん: うん、この記事は今起こりつつある出来事を冷静に捉えていると思う。米国のちからによる世界の構造論とかを持ち出さずに、現象面を丁寧に追うことで極めてよく事実をまとめている。
 特に面白いと思ったのは、「労働対価的な価値論がもはや成り立ちにくくなっていることを自覚している」と吐露していることだね。店主さんは「欲望の資本主義(2)」では、マルクスを対比させて同じようなことを浮き彫りにしようとしているよね。僕は、そもそも根底の社会価値観が最近、大きく違ってきたのではないかと思い始めているんだ。

▼店主: というと?

▼Aさん: ミレニアル世代の人たちって、自己実現による充足感が第一であり、従来の貨幣対価性という概念を徹底的に破壊している。旧世代の僕なんか、「この人たち生活大丈夫だろうか」と心配になるくらい(笑)。これって、この揺り戻しが来るんだろうか、それともこのまま世界の資本主義が変わっていってしまうんだろうか、ちょっと面白い時代に入ってきたね。

▼店主: どうでしょうかね。確かにマルクス経済学において、「労働が剰余価値の根源である」ことが根底にあります。だからAさんの仰る通り、その労働をしなくて済むという考えは確かにこの根底をひっくり返しているように一見見えます。
 しかし、森永さんのインタビューで出てくる仮想通貨で巨額のマネーを得た人は、それが株でも為替でも先物でも成功する人じゃないかと思うんです。仮想通貨は「暗号資産」という呼び名になり、投機性資産と認識されたわけですから、経済の原理原則は変わっていないのではないでしょうか。

▼Aさん: 原理原則?

▼店主: 労働は義務であり、苦役であり、喜びでもある。その矛盾した原理原則のことです。それは労働は多くの人にとってつまらない一方で、人から働くことを奪うとつまらぬ人生になると多くの人が語ってきていることからも明らかではないかと。「 生きることは死ぬまでの暇つぶし」、とまでシニカルなことは言わないけど、すべて機械やらAIやらがやってくれて、何もすることがなくなったときの空しさは「死なない命」を貰ったほどの虚しさでしょう。

▼Aさん: 確かにそれは辛いね。

▼店主: 尤も、労働から吸い上げた税金などの所得再分配がタックスヘイブンの活用などで機能不全に陥りかけていることもまた事実。これは次回以降の「風待食堂」で書く予定ですが、この機能不全を回避するために全員に同じ金額を一度わたしてしまえという「ベーシックインカム」を導入するという考えは公共経済学的にあり得ると思います。
 と同時にこうした極論に走らざるを得ない背景を解き明かしたという点で、NHKの「欲望の資本主義」シリーズは見応えがありました。 「経済学」「社会学」「哲学」「宗教」「心理学」が交差する時代にだからこそ、ノーベル経済学賞をとった「行動経済学」の学術的意義が強く認められたのでしょう。「結局は人の心に落ちるしかない」というところを再認識しているのでしょう。

▼Aさん: 確かに経済学の原理原則は裏切らないと思うんだけど、ちょっと僕が感じているニュアンスは違うんだなあ。それは「価値の生成に関する部分は修正を余儀なくされるかもしれない」ということを感じるんです。
 額に汗して働き、その対価である貨幣を得ると言う構図が消滅するわけではないけど、一方で若い世代を中心に喜んで無償の労働、ボランティアであったり、社会事業であったりに自分の人生を捧げ始めています。
 そういう行動は、かつては仕事を持った人たちの余技でしたよね。でも今はむしろそちらが主となっている。よくミュージシャンや俳優を目指す人たちが、食うだめにアルバイト人生を送るけど、人生の主体はそこにはないというのに近い感じ。そんな感じのことがだいぶ世間でまかり通り始めている感じがある。
 日本の経済は確実に縮小すると見ているんだけど、そうした中で、そんな生き方がマジョリティーになってくる新しい種類の社会に向かってるんじゃないんかなあ。

▼店主: それを考える前に「価値」とは何かを定義し直す必要を感じます。「価値から価格への転化論」はマルクス経済学の重要な命題で、そのコアである「価値」の定義がとても曖昧になっていると思えてなりません。確かに日本では額に汗しなくてもお腹を満たすことはできるかもしれないけど、そうでない国や地域が世界的には普通でしょう。
 とすれば、日本を基準点にして価値と価格と資本主義を議論することはかなり無理があるように思います。その意味で若い世代の考え方には必ずしも同意できない。
 僕も今の変化、変化の生活に疲れ切っています。願わくば、労働を切り売りして食べ物を得る生活から少しでも離れたいと思っています。しかし、そう思える事自体がとても呑気な考え出し、常識的にはあり得ない。とすれば、「どこが正常でどこが異常か」を正確に見極める必要があると思います。

▼Aさん: 確かにそのへんは曖昧なまま世代間の議論とかに置き換わっているかもしれないね。

▼店主: そうなんです。「価値とは何か」に正面から取り組んでいる議論を最近はあまり見聞きしません。いや、見聞きする前に情報洪水のノイズでかき消されているようにも思います。
 「社会起業家」が数年前に流行りましたが、結果的に彼らの経済的なEXITは何をもって定義されるのかと感じています。彼らの経済的なEXITは、ビッグマネーを得ることではなく、ささやかに人間らしく生きていくことですから。でも、一方で社会起業などせずとも食っていくことはできます。1,000万円も資産があれば、大阪の西成で優雅に生きていくことはできるでしょう。そう考えると、額に汗して働く必要はないという価値観は、なんとなく「まがい物」のような香りがしますね。とても嫌な香り。重要なのはそういう匂いを感じるアンテナなのではないでしょうか。

▼Aさん: 懐疑的な感覚は僕にもあるね、そこは。社会全体が変質したというにはまだ早い。それはその通り。しかし、感度という点からいうと、社会の変化の兆しは「いっときのブレ」以上に確かなものであるように感じるのです。

▼店主: 無償の労働があるならば、なぜ子供の虐待死がこれほど増えているのかと感じます。ちょっと話は飛んじゃうんだけど(笑)。子ども食堂も、ボランティアの炊き出しもあちこちにあるのに、結局殺されちゃう。
 そこには心の問題、人間の本質の問題が絡むように思います。そしてそれを解決できるのは、宗教と心理学と哲学といった人文科学に求めるしかないのでしょう。もしくは自然科学かもしれません。算数でベン図という円が重なるズを小学校で学びますが、これら人文科学と自然科学のベン図が重なるところにこそ、「解」を求めるツールがあるのではないかと最近強く感じますね。

▼Aさん: 一定パーセントの世代は、僕たちの時代とは違う環境の人たちが生まれてきている。しかもそのことが世代に共通して世界に広がっている、そんな感じは拭えません。
 最近、大きい銀行、大きい商社、大きい広告代理店の人事部長と話をするんだけど、共通に話題となるのは「若い世代の退職」。苦労して入った狭き門なのに、入ってみて社会的な正義や自分のビジョンと違うと非常に潔くさっさと辞めてゆく。この辞め方が僕たちの少し下の世代位の人事部長たちには全く理解ができないのだと。店主さんも心当たりあるでしょ?

▼店主: ありますね、確実に。多分、価値観が変わっていることは事実。それが甘いのか新しいのかはわからないけど。だからこそ、従来の所得再分配システムでは解決できない時代に入っているのでしょう。一見するとまやかしに見えるベーシックインカム議論が真剣に検討されねばならないのはそこなんです。

▼Aさん: 実はこの現象はアメリカやイギリスではずいぶん前から見聞きされてきたことと同質なんだ。ハーバードビジネスクールの卒業生の就職先は、かつては自分の投資した金額に見合うコンサルティング会社や投資銀行が圧倒的でした。それがここ10年、社会起業家など容易に投資を取り戻せるとは言えない仕事がトップです。厳然たる事実として存在している。

▼店主: 年度末が近いので、僕も勤務先で先日人事評定を受けました。とても愉快ならざる気持ちになりました。というのも、「あなたの自己評定は定量的に可視化されていない」と言われちゃったからです。
 Aさんもご存知のように、僕に価値があるとすれば、一見関係ない事象の「つながり」を発見し、それを提示することにあると思っています。この役にも立たない「風待食堂」もそうですよね(爆笑)。落語の大喜利の三題噺みたいなもんでしょうか。
 でも多くの引き出しを持っているからこそ、その「つながり」を提示できるし、それを実際にビジネスに落とす手伝いができるかもしれない、それが自分の生きがいであり得意技です。
 しかしそれを定量的に可視化せよと言われては、これはちょっと困った時代になっちゃったなあと戸惑っています。そこにどういう価値があるかを見抜くのは評価する立場の人で、どう可視化するのかの手法も評価する立場の人のお仕事ですよね。
 そうでなければ、いわゆる「プロフィットセンターとコストセンター」という非常に荒っぽい分け方しか社会に存在しなくなる。額に汗して働くのがプロフィットセンターで、そうでないのがコストセンターとなると、Aさんの懸念と僕が感じているフラストレーションは同質化もしれませんね。

▼Aさん: 店主さんのボーナスは僕は決められないから、その話は一旦置くことにして(笑)、全体最適論は難しい時代になったことは事実ですね。だから政権も「世間」を納得させられない。 部分解の積み上げが必要そうです。

▼店主: 繰り返しになって申し訳ないんですが、最終的に「自分を自己承認・自己肯定できるか」という人生の本源価値に気づき始めたのだと私は感じています。一方で、赤の他人である他者からの承認、承認欲求を満たそうとすれば、当然、自己承認と他者承認の間を埋める認知的不協和は生じます。情報過多の中で、そこに気づきにくくなっていることが今の社会を混乱なせている気がします。
 そしてその考え方は「自分以外は全部バカ」という認知的不協和の解消である程度かいけつできる、カタルシスの解消できることです。それが最近の嫌な事件の背景じゃないでしょうか。

▼Aさん: 店主さんが働いている起業は極めて優れた会社であると思っていますけれど、現在の社会で優れた会社であると言う事は、この1段階前にそういう仕組みをうんと導入「してしまった」と言うことにほかならないのです。
 日本の主力起業が備えている数値化、PDCA管理が大変な勢いでそのレリバンスを失っています。 困ったことに、一方でこれが重要で有用な局面も事実として存在するのです。だから誰も積極的にやめたり変えたりできない。でも多面的、質的な評価や判断が必要な世の中、社会、生き方になってきている。そのことに優れた企業ほどついていけてない現実があります。企業評価やブランド評価の観点から、僕は日々それを感じるね。
 自分の満足の一部は、店主さんがよく引き合いに出す承認欲求のようなことと関係しており、だれでも満足の関数の一部に周囲の人々の評価の関数である部分が取り込まれているからでしょう。

▼店主: さすがAさん、鋭い視点ですね。そうなんです、この優れた仕組みがあるからこそ、多くの日本企業は生き残ってきたというのも事実です。ただ、多くの同世代の仲間が、いずれの企業貴重なリソースの価値を見いだせず、コストとみなして削ろうとする流れのみが強化されていることに無力感を感じています。

▼Aさん: そうですね。そもそも何が経営資源、リソースなのかということを企業経営者と社会は見つめ直さないとこの閉塞感は打破できないかもしれません。

(※https://www3.nhk.or.jp/news/special/heisei/interview/interview_02.html)