▼ 2019/1/28の項に続いて「欲望の資本主義」を見て感じたインプリケーションを書きたい。タイトルを付けるとすれば「資本主義の徒労感とマルクス経済学の復権」だ。

▼ 「神の見えざる手」は人を信じる性善説であり、楽観主義だ。よりよい生活を求める人間の知恵が新しいテクノロジーと高い賃金が社会を活性化させ、さらに革新を生むというスパイラルに入ることを前提としている。しかし、果たして本当か。だとしたら、現代社会に生きる我々の徒労感、無力感、ストレスはどこから来るのか。そしてそれはチャップリンの「モダンタイムス」でも描かれたアイロニーと何が違うというのか。

▼ 資本主義は技術革新が賃金として人と社会に還流するはずだった。が、実際は賃金は頭打ちとなり、むしろ金融に投資資金は回っていく。その結果が労働者の移動だ。移民問題はもはや喫緊の課題となっているが、本来の移民とは「政治移民は道義的に受け入れるが、経済移民は自国経済防衛のために受け入れられない」が本音だったはずだ。しかし、低賃金による自国民の搾取の限界が来たところで、経済移民を政治移民と同レベルで受け入れOKとしたのがこの移民問題だろう。そしてそれは多くの国同士の関係を悪化させ、ナショナリズム、ポピュリズムの台頭を生んでいる。

▼ 皮肉なことだが、東西冷戦という外的な制約、対立概念があったからこそ、本源的悪に人は走らずに済んだのかもしれない。東西冷戦という外部制約がなくなったからこそ、野放図な「悪」(evil)に人は走り出した。そんな感を拭えないでいる。資本主義は飽くなき想像と破壊をエンジンに発展するとシュムペーターのイノベーションは語られる。最近、流行のように唱えられる「破壊的イノベーション」というやつだ。しかし、それは本当なのか。シュムペーターは「資本主義はその成功ゆえに自戒する」と述べている。一方で、マルクス経済学はその体系の批判と反証の突きつけを超えても致命傷を追わず、ノスタルジーを超えて今なお、いやむしろかえって構造の力を際立たせいているように見えるのはなぜなのか。

▼ マルクスの述べた「商品を通じて貨幣はその量を増やす」、G-W-G’の算式は人間の本質であり、それはお金と聞くだけで体の中に電流が走り、お金は人を作り替えてしまうことからもわかる。とすれば、成功・価値・カネとは闇の力なのか。確かに「永久成長」というありえないもの、手がとどかないものを手に入れるために、人はカネを欲する。

▼ カネやGDP成長を求めることが「神の見えざる手」のように社会を改善するという声はいまなお叫び続けられている。トリクルダウン(富むものから富めば、自動的に社会の底辺にいるものにもその富は落ちてくるという理屈)をサッチャーもレーガンも語ったが、あれから30年以上、トリクルダウンは実現どころか、富めるものはより富むという流れが強まっている。

▼ 対立概念こそが本源的悪に陥ることを避けさせてきたのではないかと述べた。とすれば、資本主義を支えているのは共産主義や社会主義の存在とも言えるだろう。価格はわかりやすいが、価値はわかりにくい。価値は主観で、価格は客観。それの齟齬をなくすことに資本主義も共産主義も力をかけてきた。資本主義はその齟齬の原因は需給関係に伴う価格のアービトラージであり、共産主義は労働者搾取による幻想価値の創造と述べてきた。しかし、共産主義という対立概念をなくしたいま、アービトラージですべての価値と価格の齟齬を説明しうるだろうか。

▼ 否。マルクス経済学における搾取は労働が対象だったのに対して、今は「創造性」が対象となった。つまり「創造性亡き者は死ね」と。新・搾取主義はテクノロジーという無制限の怪物によって行われ始めた。搾取は人間疎外を生むが、限界などない創造性の発展が搾取を生む構造になった。人は考え、考え、考え続けることで搾取されるようになった。それはより良く生きることや一日を感謝することを「考える」のではなく、曲解されたイノベーションと呼ばれる怪物に尻を叩かれて何か新しそうなことを考えることだ。そしてそれが金融工学の派生商品分野で、サブプライムローン(低信用権)の貸倒れ確率をプライムローン(正常債権)のそれで代入するという異常なインチキで金融危機を起こすということをほんの10年前に起こした。だからこそ、あの頃、多くの経済学者が資本主義の崩壊や危機について多くの書物を著したのではなかったか。そして今、似た状況にあることに筆者は「人は歴史から学ばない」という言葉の重みを感じる。

▼ フロイトは「芸術家のような人生を送るのは不幸」と述べたそうだ。なぜならそのことは、創造性の欠乏に常に恐れながら生きなければならないから。まさしく創造性の搾取を求められる今はその次代であり、すべての人間が芸術家になることを求められている。新しい何かを生み出さないものは無価値であるという強迫観念に基づいた搾取の論理が作られ、人々は疲れ切っている。以前のように自分のできることを淡々と続けて一日の糧を得ることは無能だと言われるようになった。働かないことは「余暇」ではなく「失業」と解釈されるようになった。

▼ 多くの人間にとって仕事はアイデンティティの一部である。世間で言われるイノベーションとやらが進んで自動化が進むことはもはやユートピアを産まず、AIによって失業するというディストピアを生むと脅されつつある。本来は自動化によって生まれた時間と余裕は「余暇」と評価されるはずなのに「失業」と解釈されるからだ。少なくとも心理的な失業者になる。

▼ 最後ではそこから生まれるベーシックインカム議論から話を始めたい。