▼ 「持たない」社会について、読んでくださった知人から深い考察を頂いたので、それも交えながら引き続き考察したい。
 
▼ 一点目は「持たない」のではなく、「持てない」のではないかという指摘だ。真に正鵠を得ている。経済評論家の森永卓郎氏が初めて「年収300万円時代を生き抜く経済学」を著したのは2003年。グローバルではITバブル崩壊、エンロン事件が起きた後。日本では日本では「自民党をぶっ壊す」と小泉政権が人気を博している頃だ。
 
▼ 小泉政権と言えば竹中平蔵氏であり、「郵政改革」が一番わかりやすい事例だ。構造改革という名前の際限なき自由競争を全面的に打ち出し、それによる格差社会と貧困化をかいたのが森永氏の著書である。
 
▼ しかし、当時はセンセーショナルなタイトルに話題は集まりベストセラーとなったものの、それを信じた経済人は多くなかったように思う。私個人の記憶では、サラリーマンの平均年収は700万円と言われた時代だ。実際、森永氏のサブタイトルも「年収半減」という言葉があるので、さほど間違いないだろう。
 
▼ あれから15年過ぎて、それは現実となった。格差社会の到来はもはや既に起こっている現実であり、リーマン・ショック、トヨタショックを経て、就職氷河期世代の少なからず人間が今なお貧困にあえいでいる。働き方も派遣、契約社員が新卒でも当然となり、そして、安倍政権は裁量労働制という名前の毒薬を持ち込もうとしたのは記憶に新しい。
 
▼ 「持たない」生活は確かに一見美しい。資源の無駄遣いをやめ、共有できるものは共有する。使用価値に対価を支払うという、ある意味でマルクス経済学における「価値論」の原点に戻ったとも言えるし、共産制にも近い。「社会起業家」と呼ばれるmonetaryを目標としないアントレプラナーが受け入れられるのもそれが背景だろう。
 
▼ しかし、だ。そもそもの「持たない」生き方、「断捨離」は物質的な豊富さでは豊かな生き方は求められないと考えた、「既に持ったことのある」世代の生き方の話であり、「持てなかった」世代の志向ではない。ここに大きな混乱があるように思う。
 
▼ 景気悪化時点には、様々な似た論調が出る。中野考次氏の「清貧の思想」が発行されたのは1992年と80年代バブル崩壊の翌年である。結局、経済的に満たされない時に、内面的なところに回帰するしかないということなのだろう。そうでなければ、認知的不協和を解消できない。
 
▼ 知人から指摘があったのは、実質賃金だ。確かに実質賃金は1980年代初頭にまで低下している。1980年代と言えばすべてバブルと考える人が増えつつあるが、別冊宝島の「80年代の正体!」ではサブタイトルで「それはどんな時代だったのか はっきり行って「スカ」だった」だ。それほどに1980年代はジェットコースターのように不況とプラザ合意による過剰流動性バブルによる異常な好況がアップダウンをした年代だった。
 
▼ そして今。既に触れたように記録的な低金利のもと、何度めかの不動産高騰が起こり、仮想通貨という極めて理解しにくい金融商品に群がり、そして損失を被るという構図は「スカ」だったと振り返る1980年台バブルを想起させる。
 
▼ 「持たない」生き方が、実は欲求を満たすことのできない経済状況によるフラストレーションを合理化するための自己防衛だとすると、あまり明るい将来は期待しにくい。知人の指摘はその意味で重い。