《 異文化 》
 今年は昨年の「龍馬伝」ほどには夢中でないものの、今年の大河ドラマも今のところかかさずに見ている。こうした歴史ドラマや歴史小説を見ているも感じるのだが、日本のステップアップやジャンプアップは常に「異文化の受け入れ」とそれに対する「葛藤」にあったように思える。

 企業や組織を見ていても、「異文化」「異質」を受け入れないわけにはいかなくなってきた。「純粋培養」は生物学的に見ても環境変化には極端に弱いのだから、当然と言えば当然なのだが。

 「異文化」受け入れの最大のメリットは、異なるものがぶつかることによる化学反応による新しいものの生成(chemistry)だろう。なるほど、今や女性の生理用品や紙おむつに欠かせない吸収性樹脂は「アクリル酸」と「エステル」の化学反応によってできたものだし、生命にとって必要不可欠な「水」も「二個の水素」と「酸素」の出会いによるものだ。全く予想をしなかったのに偶然、できてしまった化学物質も多い。

 そう考えると、企業や組織において、「異文化」や「異質」をあえて入れることは、予想もしなかった効果をもたらすことが多い。

《 反作用、副作用、副産物 》
 先日、何社もの企業との統合を繰り返してきた企業の経営トップに会った。今後の方向性をどう打ち出すか、というのがアジェンダだったのだが、そのためには過去のヒストリーを「異文化」「異質」の受け入れを含めて整理してみましょうというのが僕からの提案だった。

 いつ、何が新しい考え・文化が入ってきて、それがどのように作用したのか。それと客観的な財務数値・経営数値の違いを照らし合わせて、「異文化」のもたらした影響を自分たち自身で納得するのはとても楽しいことだ。少なくとも過去のことであれば口角泡飛ばした議論にならず、「なるほど、ここで我々の一つの源流ができたのか」と納得する、和やかな議論になるはずだ。また、異文化と自社のオリジナル文化の融合促進を進めた「触媒」が何であったのか(誰であったのか)も見えてくるはずである。

 と同時に、今現在、経営者や従業員の心の隅に残るドンヨリとした陰、うまく表現できないけれども「割り切れなかった想い」というものの存在にも気づくはずだ。それらは化学反応でいうところの「副産物」であり、薬でいうところの「副作用」である。物理学的には「作用」に対する「反作用」である。

 これら「反作用、副作用、副産物」に目を向ける機会はとても少ない。得てして、こういうものは「時代についてこれなかった負け犬の泣き言」としてしか処理されず、青シートをかけて工場の隅っこに放置され、雨ざらしとなるのが普通だからだ。いわば、企業の歴史における「見たくない部分」。

 しかし、それら「反作用、副作用、副産物」にあえて目を向け、皆がどう感じているのかを語るのは極めて重要なことだと言わざるを得まい。なぜならば、製造業において「副産物」が生まれるのは当然だし、それをどう処理するのかは、全体最適を得る上でとても重要なことなのだからだ。

《 言語統一の必要性 》
 別の企業だが、そこは前の親会社の人間、前の時代のプロパー社員、新しい親会社の人間、新しい時代にプロパー社員、そして途中入社の五種類の人間が混在している。まず困るのは「言語の違い」だ。粗利益率といっても、値入率だと解釈する者もいるし、格下げロスだけを入れたものだと解釈する者もいるし、完全棚卸しをした後にしか出てこない数値だと解釈する者もいる。これを統一基準にしなければ議論が始まらない。しかしながら、それぞれが違う解釈を使っていたと言うことは、それ相応の理由があるので、なかなか統一するのは難しい。

 既にこの「言語統一」の段階で「副産物」は生じる。自分たちの意見が通らなかったことによる、なんとも言えない疎外感、である。これが統合会社や合併会社ではゴマンと積み上がってくる。それらが従業員の心の中になんとも言えぬ「黒い塊」を生む。時にはそれが変質して、爆弾になることもある。とっくみあいの喧嘩ならばまだしも、意図的な情報漏洩や不正など。ただ、それらは決して深い意味があるのではなく、「面白くないから、やっちまえ」的な、仲間はずれにされた不良グループの中学生レベルで起こる可能性があるのだ。

《 スラッジ 》
 その意味ではますます企業の発展過程は「化学反応」に似ている。A(社)とB(社)という異質を混ぜることで化学反応を起こし、新しい何かを得ようとする。しかし、なかなか化学反応が起こらずに困っているところに、ちょっとした「触媒」(人のケースもあるし、新製品のケースもある)を入れただけで、わーっと反応が進む。予想以上に新しいものが生まれる。

 そしてそれが均衡状態になり、反応が停止する。そうすると経営者としては、また新しい反応を起こさせようとC(社)と触媒を投入する。わーっと別の反応が起こる。新しい者が得られる。

 これ自体は一見ポジティブなのだが、その陰には「スラッジ」と呼ばれる汚泥、沈殿物、製造タンク内の錆などが溜まっていっている。時にはそれらが生成物を送るためのパイプラインに詰まり書けていることがある。だからこそ、メーカーは一年に一度、これらの「スラッジ」を掃除するためにラインをとめ、定修(定期修理)を欠かさない。化学反応による生成物ができることと、「スラッジ」の蓄積は同意義なのだ。

 ところが流通サービス業のように基本的には定修を行わないところでは、この「スラッジ」の目視確認をする機会が少ない。しかも、これらの「スラッジ」は各経営者や従業員の心の中にある。だから、一人一人聞いていくしかない。しかし、それは不可能だ。規模が大きくなることによるデメリットはこれである。

《 スラッジに如何に目を配るか 》
 考え得るサービスというものが生み出され、考え得る面白い商品が発掘され尽くした中で、新しい何かを得ようとするならば、化学反応、つまり異質なモノ同士の融合は大きな選択肢だ。しかし、同時にそこには必ず「スラッジ」が生じ、パイプを詰まらせる可能性があることを理解せねばならない。化学反応でパイプが詰まった究極の姿は「化学反応プランとの爆発」である。それは決して起こしてはならない。

 そのためにも、「共通言語」を徹底的に共有し、少なくとも意思疎通に起こる誤解は最小限にしなければならない。それが合併、統合、提携によるシナジーをえるための最も大きい条件なのではないかと考える。

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