《 代表取締役兼総務係長 》
 二月決算発表が終盤にさしかかる中、数字以外のところに着目しながらアナリスト説明会に参加しています。

 二週前の「余談」で、「αとβ、右脳と左脳、ギャンブルとサイエンス」という対立軸で経営を切り取ってみました。これは、(1)頭の悪い私にとって両極端な軸で物事を見るのは頭の整理がしやすいことと、(2)経営・管理をする人にとって、しばしば自分がどこの立ち位置にいるかということを見失いやすいように思われるからでした。

 唐突な話題ですが、私のある尊敬する経営者(=社長)が、「佐々木さん、俺はなぁ、代表取締役社長兼総務係長なんだ」と仰ったことがあります。なぜかと訝る私に彼は「そのココロ」として、「敵対的TOBへの対応から店舗の掃除道具置き場まで、ぜーんぶ自分が決済しなければならない」からだそうです(苦笑)。

 部門長はいても、最終的にケツを拭く(汚い例、失礼)は自分であり、高尚な概念論からボトムアップのドロドロの仕事までランダムに投げられる球を全部打ち返して当然と思われるのがトップであると、軽妙に表現した金言です。トップというのは、単なる「感想」までもが「ご託宣」であるように御輿に担がれてしまうこともしばしばあり、誰が善人で誰が悪党なのか見分けがつかなくなるということも悩みの種であるようです。確かに外部から見ていると、あれほどオープンで良い人だったトップが、いつのまにかYESマンに囲まれて「声はすれども、姿は見えず」となってしまうことはよくあることです。

 そう考えると、経営トップとか部門長というのは「宇宙遊泳」のようなものでしょうか。自分がどこを漂っているのか、上を向いているのか逆さまなのか、目的に近づいているのか遠ざかっているのかを見失いそうになりながら「船外作業」をしている、と。この気持ちの悪いフワフワ感を排除するためにも、「二軸での対立軸」でシンプルにものごとを整理するのは以外と有効であるかもしれません。

 私の場合は、「ポジティブ(=良いこと)・ネガティブ(=悪いこと)」という軸で切り始めます。いかに自分の地頭が悪いかを痛感しますが。

《 流通サービス産業におけるR&D 》
 おっとっと、話が脇道にそれました。

 今回の二月締め決算発表の私なりの総括をするならば、震災を経て、「流通・サービス産業の新しい効率化」を考え始めたという意義があったように思います。換言するならば、「誰かに負担を押しつけて見かけの数字を作るという『効率化』ではなく、根源的な仕組み革新という意味での『効率化』が必要らしい」」ということを再確認し始めたということです。

 第一次産業や第二次産業の経営者は頻繁に口にするけれども、第三次産業の経営者がほとんど口にしない言葉とは何だと思われますか?。それは私見では「R&D、研究開発費」という言葉です。通常はアナリスト説明会ではR&Dについて、設備投資や減価償却と同じくらい重要な数字として製造業では語られます。しかし、流通サービス業ではその限りではない。なぜか?

 それは第三次産業にとっては新しいタイプのお店を作り、メニューを開発し、教育制度を作ることが「R&D」であるからでしょう。R&Dは日常業務の中に埋め込まれているという点で、第一次・第二次産業と第三次産業は大きく違うと言えます。

 ただ問題なのは日常に埋め込まれているため、「埋没」するリスクも極めて高いということです。埋没したR&Dは、それに要する時間軸と費用対効果ということが測定されなくなりがちです。そして、どこまでが日常業務で、どこまでがR&Dなのかの判別がしにくくなる、これが流通サービス産業におけるR&Dが「見える化」されない問題です。

 誤解を恐れずに言えば、比較的安易に試行が始まるものの、それの正否を測定する基準が希薄であるため、ヒラメばかり居る組織の中では試行をやめるにやめられなかったり、R&D試行部門の赤字を本社経費につけ回して黒字事業だと言い張ったり、というケースが散見されるます。だから、多くの部門や分野がありながらも、第二次産業のようなEVAなどの部門分野別効果測定という概念がなく、ざっくりとした全社のROAや利益率、回転率といった指標でだけ自社を評価することが多いのでしょう。

《 震災を経て得た「効率化」の目覚め 》
 しかし、今決算シーズンは流通・サービス業の「R&D」、「産業化」という言葉を多く聞きました。前々から申し挙げているように、回転差資金があるがゆえに運転資金を心配しなくて良い日本の流通業は川上産業の信用(クレジット)を借りてビジネスをしているという見方ができますし、「人材は人財である」という耳あたりの良い言葉で過剰労働と意志決定を従業員に丸投げしている一部のサービス業も存在します。まるで日本で「サービス」は無料と同義だと勘違いしているのと似ていて、皮肉なことです。

 こうした非科学的なアプローチ、精神論に根差してアプローチは太平洋戦争後期の精神論に依った日本の思考回路に似ています。もちろんこれは日本だけの話ではなく、「大躍進政策」の失敗を糊塗するための「文化大革命」や、農業生産性を上げるために鐘や太鼓で農業従事者を応援する応援隊がいたりしますから、人間の考えることはおおかた変わらないのでしょう。

 しかし、またもや坂口安吾ですが、「真実は裏切らないものであり、こうした精神論的なやり方は物質論的なやり方に負け」たことを日本は太平洋戦争で痛いほど学びました。だからこそ、本家の米国で無視されつつあったエドワード・デミング氏を師と仰いだTQCが定着しましたし、ロバート・マクナマラをはじめとするMBA取得者に対する畏敬が生まれ得ました。戦後の流通・サービス産業も精神論産業論からの脱却を目指して近代化が始まったはずでした。しかし、それが残念ながら、いつのまにかマクナマラならぬ「ナマクラ」なものになってしまっていた(苦笑)。そのことが今回の震災を経ることで、再び覚醒したのではないかと私は思っております。いや、そう信じたいというのが本音です。

 とはいえ、科学的アプローチというものがそれほど難解なものではありません。「一定の制約条件の中で、顧客満足と収益を最大化する」というだけのことです。書いてしまうと身も蓋もありませんね。

 しかし、「一定の制約条件」とか「顧客満足」とか「収益」を概念でなく、具体的なものにおとしていくのは難儀なことです。日常的に流れている事項を高速度カメラで撮影して、一コマ一コマ分析することが必要になります。かといって、あまりに微に入り細に入りしていると、「木を見て森を見ず」になります。なるほど、やはりここでも対立する両極の軸が同時に成立しなければなりません。それを成立しようと考えた時に「産業化」が始まるのでしょう。そして、この高速度カメラの精度とか、思いっきりズームアウトした全体像を想像する力とか、それらを同時並行でこなしていける能力は、今後、企業や経営によって相当な差が生じてくるような予感がします。

 その意味では、なかなか面白いことになってくるのではないでしょうか。

《 私は我が家の代表取締役社長兼総務係長 》
 …..と、これを自宅で書いているうちに、三度ほど家人に呼ばれて余談を書くのを中断しました。一度目は、住宅ローンの引き落としの話。二度目は、ハードディスクレコーダーが動作しなくなってしまったので何とかして欲しいという救援依頼。そして三度目は、彼女の趣味であるアートクラフトで昨日完成した作品の感想要請です。

 中断されながらも「ハイ、ハイ」と対応した私ですが、よくよく考えれば「経理財務」「ITサポート」「人材モチベーションアップ」を同時並行でこなしているわけで、なるほど自分は佐々木家の経営者兼総務係長なのだと得心した次第です。

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