《坂本龍一さんの「スコラ」》
 年末年始のテレビ番組はあまり面白くないものと相場が決まっています。特に除夜の鐘が鳴った後は、それまでの盛り上がりが嘘のようなつまらない番組ばかりで、三が日は時間をもてあますということも少なくありません。

 そういう時にお勧めなのがNHK教育テレビ。学校が休みで番組枠が余っているのか、過去に放映したもので評判の良かったものをまとめて再放送してくれます。今年の正月の拾い物は「坂本龍一のスコラ」でした。

 坂本龍一さんというのは、ご存じイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のメンバーとして、また「ラストエンペラー」をはじめとする映画音楽その他で活躍している世界に誇れる音楽家の一人である坂本龍一さんです。この坂本さんがクラシックやジャズ、リズムなどの音楽の基礎を解説しつつ、中高生の学生とその基礎が実際にどう使われているかを検証するという番組が「スコラ」です。

 私が拝見したのは、(1)作曲家のバッハを素材にした西洋クラシック音楽の基礎、(2)ジャズの発展の歴史とその背景、そして(3)ドラムやベースといったリズムについて、の三シリーズ。驚いたのはどれもこれも音楽の話でありながら、組織運営とか経営とかを思い起こさせる内容でありました。

《不協和音は緊張感の源泉》
 まずバッハを素材にしたクラシックの基礎。

 私は全く知らなかったのですが、バッハは「和音」を発見し、体系立てた作曲家なのですね。しかも、それまでの和音というのはC長調であれば「ド」と「ソ」だけだったのが、「ド」の三度上の「ミ」を間に入れることで、とても安定的な和音になることを発見した。これを「三度の発見」というのだそうです。

 私もギターを弾きますが、確かに「ド・ミ・『ソ』」を「ド・ミ・『ラ』」に一個変えただけで、ギターのCメジャーからAマイナーになります。音階としては似ていますが、楽しく明るい雰囲気(=メジャー)から暗く悲しい雰囲気(=マイナー)になります。この第三度の「ミ」が和音に入っているかどうかで、確かに和音の応用度が全然変わってきます。

 で、こういったきれいな和音に合わない音を入れるのが「不協和音」。この不協和音が入ると、誰でも違和感を感じ、「なんだか居心地の悪い、変な音階」と思います。ところが、この「合わない変な音」をあえて入れることで、聞き手は「あ、変な音。何が起きるの?」と聞き手の緊張感を高める効果があるのだそうです。

 なるほど、さきほどのCメジャーという和音を基礎に音楽を作る際に、C→F→C→G→Cというような基本的な流れを繰り返した後、C7(セブンス)といって「シ♭」という不協和音を入れたコードを入れることがあります。それは転調したり、曲調を変える時です。曲のクライマックスとかサビに入る直前ですね。つまり「不協和音は和音があって、それを共通認識として持っているからこそ使える、変化の兆し」であるということです。

 これって組織運営や経営にそっくりです。ずっと和音できれいな整った流れの中に、いきなり不協和音を入れる。一見するとものすごい違和感がありますが、逆に緊張感が高まり、違うステージに行くのじゃないかと組織が引き締まります。そしてそういう風に不協和音を生かすためには、そもそも和音というものがどういうものかがしっかり認識されていなければなりません。最初からシッチャカメッチャカな状態では不協和音を入れても緊張感を与えませんから。つまり整った状態ができているからこそ、不協和音が効くと。

 これは丸っきりええ加減な推論ですが、音楽はバッハが和音の論理を作ったからこそ不協和音を使った様々なバリエーションが生まれたのに対して、組織運営や経営はまず様々なバリエーションがあって、そこを一気通貫する理論が求められていった、という逆の流れをたどったのではないかと思うのです。その理論がドラッカーであり、マイケルポーターであり、様々な学者なのではないかと。数学的帰納法と演繹法の違いこそあれ、証明したいことは「不協和音」が調和の中にも必要だということです。そしてこのことは、以前に触れた「異質力」の議論を思い出させます。

《ドイツ、活版印刷、バッハ、そして宗教革命》
 引き続きバッハの回の話。バッハはライプツィッヒというドイツの田舎町でこうした音楽理論を確立させたと言います。何故にそんな田舎町でこの偉大な作曲家が?、と不思議に思ったのですが、非常に明快な背景がありました。

 キリスト教はローマ法王が絶対権力者であるカソリックの時代が長く続きました。実はそれは「一般の人は聖書を読めなかったので、教会の牧師さんから説教を聞く以外に教義に触れる機会がなかったから」という理由があります。しかし、この読めないというのは文盲という意味ではありません。聖書は難解なラテン語で書かれているし、印刷技術がなかったので聖書を持っている人がそんなにいなかった。日本もそうであったように、当時の本はすべて「写本」であったわけです。

 しかし、聖書がドイツ語に翻訳され、しかもグーテンベルクの活版印刷の発明により、誰でもイエスキリストの教典である「聖書」に触れられるようになった。そうすると、ローマ教会が仕切っている今のキリスト教はおかしいじゃないかと、もっと教典に忠実に信心すべきでないかという機運が高まった。バチカンに大量の上納金を払っていた各国もそれに経済的理由で賛成した。それが宗教革命です。

 そして聖書と同じく、キリスト教の教えをわかりやすく説くツールの一つが宗教音楽、つまりは賛美歌であった。ここで「ドイツのライプツィヒ、バッハ、西洋音楽の基礎、キリスト教、宗教音楽、活版印刷、宗教革命」という一見ばらばらなものが繋がるわけです。まさしく「何事にも歴史あり」。

 何事にも背景と動機があるわけで、それを知ることは実際の事例に対処するうえでは重要だと感じます。いつものスティーブジョブズ氏のスピーチで言えば「点と点が繋がる」でしょうか。

《「コール&レスポンス」こそ基本》
 ジャズの回もすばらしかったです。ジャズの基本は(1)黒人のブルース、(2)アフリカのリズム、(3)ラグタイムが混じった原始ジャズで、そこからビッグバンド→スイングジャズ→モード→ビバップ→フリージャズと変遷をしてきたのだそうです。しかし、このフリージャズになると、もう音楽の原型をとどめないくらいにメチャメチャです。ですから「もう、ついて行けない」と背を向ける人も少なくありません。

 しかし、意外なことにフリージャズのように一見滅茶苦茶なものでも、根底には一本の流れがある。それを「コール&レスポンス」というのだそうです。日本語で訳すと「呼びかけと応答」、日本民謡や演歌の「掛け合い」です。元々はアフリカから理不尽に連れてこられた奴隷達の労働歌がブルースですから、「おーい、こんな仕事は辛くて死にそうだ」という呼びかけに、「あー、死にそうだ死にそうだ、故郷に帰りてぇ」というような掛け合いをしながら辛い仕事に耐えていたのでしょう。美輪明宏さんが歌って、一時期放送禁止になっていた「ヨイトマケの歌」もそうでした。「父ちゃんのためならエンヤコラ」というあれです。そのあとに「母ちゃんのためならエンヤコラ」ときて「もうひとつおまけにエンヤコラ」と続きます。

 で、上で書いたどの時代のジャズでも必ずこの「コール&レスポンス(掛け合い)」があると。確かに必ずジャズでは全員演奏・独奏・瞬間的な全員演奏が繰り返されます。観客から見ると楽器を使った「会話」をしているようです。日本の津軽三味線による「津軽じょんがら節」でも二本の三味線がまるで会話のように掛け合いをしますし、米国西海岸ロックの代表格であるイーグルスの名曲「ホテルカルフォルニア」でも一番胸を打つ見せ場は歌が終わってからの二本のエレキギターによる掛け合い(ツインギター)です。

 つまりは、1)形は変わっても根底に流れる「スタイル」は変わっていない、2)「会話」による「掛け合い」が音楽の基本である、ということです。そういえば、バッハの様々なバロック音楽も分解すると、ある旋律を少し遅れて同じ旋律で追いかけたり、ある旋律の中で他の旋律を混ぜて、まるで「呼びかけ」をするように作られているということをバッハの回でもやっていました。私の世代では、サイモン&ガーファンクルの「スカボロフェア/詠唱」というのが有名な例です。

《音楽とは組織運営そのものであった》
(1)表層上の「演奏」の形は変わっても根本的なスタイルは変わらない
(2)きれいな和音の中に不協和音を入れることが「曲」に緊張感をもたらす
(3)ハチャメチャに聞こえる「音楽」でも根幹にあるのは、コール&レスポンスというコミュニケーションである
(4)どんな「事象」にも、歴史と動機がある
というのがこの坂本龍一さんの番組から私が印象深く感じたことです。

 そしてそれぞれ、(1)「演奏」、(2)「曲」、(3)「音楽」、そして(4)「事象」を、「経営」「経営者」「事業」「組織」と置き直しても全く同じことが言えることに驚きます。

 実は音楽とは組織運営そのものであった、というのが今日の「余談」の結論です。

 どうですか?、音楽が聴きたくなりませんか?

PS 嗚呼、やっぱり長くなってしまいました。すみません。

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