《 企業は自壊する 》
 ここ一ヶ月ほど、ずっとここで書こうとしては書ききれずにいたことを、今日こそは書ききってみたい。それは「なぜ、組織は自壊するのか」ということだ。

 全部とは言わないが、少なからぬ企業組織が自ら悪い方向を選んで向かって行っているように見え、中には断崖絶壁から全員で落ちていく。まるで都市伝説の「レミングの行進」と呼ばれる集団自殺に近いような現象。だとすると、近代企業組織はカルト集団なのか?。僕はその問いにNOと明確に答えられないでいる。いや、日本の企業組織はもしかすると良くも悪しくもカルト集団なのかもしれない。

 なぜ企業は、組織は自壊するような方向性に向かうのか。一ヶ月旨くかけなかった思いテーマをまとめるには、多少の秘薬や過激なアジテーションもあるとは思うが、そんな事情をご高察いただき、容赦いただきたい。

《 単細胞は死なない 》
 「生物がどうして死ぬか」というのは、生物学ではなかなかの難問らしい。色々な仮説はあるが、結論はない。しかし、「どうやら死というものが、遺伝子にプログラミングされている可能性が高い」というのが現在の共通認識である。遺伝子のどの部分が「死のプログラム」であるかを解析できれば、そこを遺伝子操作することで寿命の延長、永遠の命ということに近づける可能性がある。

 ただ、それがどの部分かということはまだはっきりと分かっていない。先日、萩本欽一さんが案内役になった死の遺伝子、長寿のプログラミングについての科学番組を放映されていた。しかし、結論は、「健康サプリメント」として流通している抗酸化物質を飲めば、寿命の延長の可能性があるかもしれないという、一般的な曖昧模糊とした結論で終わっている。やはり科学的にも解明をされている話ではないようだ。

 とはいえ、生物に死をもたらすプロセスは解明されている。「細胞分裂の回数には限界がある」ということでだ。命は一個の受精卵から細胞分裂を繰り返して、数多くの器官に分化する。誕生の後も、傷ついたり、失われたところを元気な細胞が分裂して補うことで命を維持する。しかし、その細胞分裂が一定回数になってしまうと細胞の補修は行われなくなり、あちこちで細胞の崩壊が起こり、命は失われていく。

 ここで面白いのは、アメーバーのような「単細胞動物」はこの細胞分裂の回数に限界がないということだ。つまり、「単細胞生物は死なない」のである。私たちは比喩として「お前は単細胞だなぁ」という言葉を使うが、これは単細胞生物から来ている。有り体に言えば、「お前は単純orバカだなあ」ということなのだが、「単細胞は死なない」という生物学の常識と重ね合わせるとなにやら別の意味が浮き上がってくる深遠な言葉にも聞こえて来ないだろうか。

 そう、なぜならば、企業も単細胞である「家族経営」のうちはなかなか崩壊しないのに、多くのセクションと機能が分化した「企業体」になると崩壊のリスクが増すからだ。そしてこの企業体はまさしく多細胞である。

《 アポトーシス 》
 なぜ企業は自壊するのか、しかも経営者も従業員もそれに薄々気づいていながら集団自殺するように自壊していくのか、そんなことを友人と話していたら面白い言葉を教えてくれた。「アポトーシス」という生物学の用語らしい。

 Wikipediaでアポトーシスを調べると、「体を良い状態に保つために積極的に引き起こされる細胞の死」のことだそうである。具体的な例としては、癌は恐ろしい病気ではあるが、癌化した細胞の多くはこのアポトーシス作用で勝手に死んでいってくれるし、初期の胎児にある手の水かきや尻尾がなくなるのも、このアポトーシスによるものだ。ちなみにこれとは逆に、死ななくても良い細胞が外傷や環境変化で死ぬことを「壊死」と言い、ネクローシスと呼ぶのだそうである。

 となれば、多細胞生物=企業とするならば、企業(組織)の部門や機能の変更、改廃はネクローシス的なるものと、アポトーシス的ななるものにわけて考える必要がないだろうか。ネクローシス的死は言うまでもなく、経済環境や国際情勢、他社との競合状況によってもたらされる外的要因と言っていい。事後的には「運がなかった、時流が悪かった」として納得するしかない崩壊である。

 ではアポトーシス的な企業の死、崩壊とは何か?。耳タコの言葉ではあるが、「変化対応」だろう。実際、人間の手に水かきがないのも、尻尾がないのも、二足歩行をし、手を使って色々な道具を生み出すためには不要であるからだ。「あえて、当初は存在していたものを切り捨て、新しい環境と可能性に備える」という点では、アポトーシス的な死というのは経営者も従業員も取引先も、そして勿論株主も歓迎するべきことであろう。

《 アポトーシス不全 》
 しかし、冒頭に触れた「レミングの行進的な集団自殺」に近い企業の行動は、このアポトーシス機能の不全が起こっているとしか思えない。しかも、多くの企業には組み込まれているのだ。いや、全ての組織に組み込まれていると行っても過言ではない。

 先日、少々おちゃらけのメッセージとしてNHKの深夜番組「サラリーマンNEO」のことを書いたが、アポトーシス機能の低下が如何に日常茶飯事で起こっているかがこの番組を単なるバラエティではなく、ほろ苦いものとしている。

 例えば会議。会議は本来、アイディアと意見を持ち寄り、最適解に近い結論を引き出すための活動である。しかし、個人的偏見で言えば会議の80%は「誰が責任を取らないか」「どうやって何も決めないか」のために開催されている。それが証拠に会議の終盤は意見が殆ど出ず、「じゃ、そういうことで、××君よろしく、たたき台を作っておいてくれ」で終わる。本来会議には各自が考えたたたき台を持ち寄って参加するのが正しいのだが、「誰も何も考えていない」状況で参加するのが会議なのだ。
 
 また別の例は「責任転嫁」。知人から指摘されたのは、「責任転嫁」という漢字の意味する深さ。「自分ではなく、嫁(ヨメ=旧日本社会の中における弱者)に責任を押しつける」、のが責任転「嫁」。ちなみに彼は昔の上司に「責任をとるために部下がいるんだろうがぁ」と言われてのけぞったことがあるそうだ。

 本来こうした会議や人事制度や組織形成はアポトーシス機能によって、全体最適のために健全に死滅していかねばならない。その代わりに新しい環境に変化できる意志決定方法や人事制度、組織形成が発生しなければならない。しかし、それを望むのは宮仕えの人間にとっては自滅行為だ。なぜならば既得権益を失うからである。

《 秀吉・秀次・秀勝 》
 昨年の大河ドラマ「龍馬伝」には随分と凝ったが(真夏に高知に龍馬伝展を見に行って夫婦で熱中症になった)、今年のあまり評判の良くない「江」もやっと話が佳境に入ってきて、面白くなりつつあるところだ。

 豊臣政権の崩壊で無情を感じさせるのは、秀吉の嫡男「鶴松」の死という辛い現実を、朝鮮出兵というおおよそ勝ち目のない戦争に向かうことで目を背け、そして甥の秀勝を朝鮮で失う一方で秀頼の誕生によって秀勝の兄、秀次から関白の座を秀頼に譲るために秀次を失脚させていくという、その陰惨さにある。

 しかし、この陰惨さは日本各地の企業でもまだ行われていることは事実である。もはや450年もその時代から経っているのにやっていることは変わらない。有り体に言えば、組織が巨大になり、多細胞生物となった中、企業としての老化が進む中で既得権益をもった内部者が健全なるアポトーシス機能を力尽くで押さえ込み、やがて体中の細胞で「死ぬべき細胞が死なない」ことによる体内矛盾が起こって、最終的には多臓器不全で死ぬ。

 だからこそ、組織がどう自壊していくかという歴史ドラマが日本では好んで見られるのではないかと想像する次第である。

 結論として僕が思うのは、無駄な人物を飼い殺し状態にしておくのが日本企業の最悪の欠点であると思う。関白秀次が心を病んで「殺生関白」などという行いをするようになる以前の段階で秀吉は大きな経済パッケージを与え、どこかの名誉職にしてやればよかったのだ。それができない秀吉も秀次もまさしくKY(空気が読めない)である。

 日本の経営陣の一部もそうではないか。「終身雇用」や「確定拠出年金」という会社に縛り付けておくツールを無くしたのであれば、きちんとした割り増し退職金と職探しの時間を与えて、次のステップに行くための準備をしてやればいいだけなのだ。もちろん、しがみつかなければ生きていけない人たちもいるだろう。それは年齢との交渉次第で、案外、本社のデスクで窓際族をやっているよりは、現場に行った方が楽しいと思っている人も多いかもしれない。一番イケナイのは「活かさず殺さず、外にも出さず」で飼い殺しにすることだろう。これをする経営者は地獄で閻魔大王様に舌を抜かれるような気がする。

《 後進のために全てを捨てよ 》
 ただ、自分が調査研究してくる中で、見事にアポトーシス的な死をあえて埋め込み、企業を丸っきり変えた例も少なからずみていて。その一つがある大手百貨店だ。

 ここは元々は大きなグループに属する一部門であり、利害関係者も多かった。親会社の創業者の子孫、親会社自体からの派遣役員、途中転職組、プロパーの社員、そして所属企業は別のところにあるが派遣をされてこの企業で働いている社員。経営陣は百家争鳴、しかし船頭多くして船山に上る状態でなんら新しい策は生まれない。生まれるのは事業所の拡大だが、それはいずれもが巨額の不採算事業。いかしながら、アポトーシス不全の日本企業なので「自分の責任はアンタの責任」「出血を止めるための施策はすべて取引業者から聞いた素人の場当たり政策」という状況。

 ここに舞い降りたのが、「最後の良心」と言われた生え抜きの有能な社長。当然、取引先、従業員、投資家、アナリスト、マスメディアともに大きな期待をした。メディアの記事には大きく顔写真も出た。

 しかし、半年経ち、一年経ち、二年経った。何も変わらない。そうした中で彼は突然の辞意表明をした。外から見るとそれは「敗北宣言」だった。当然、失望の声がちまたに溢れた。「所詮、そんな簡単に変わらないよなあ」「これであそこもおしまいだな」、そんな声があちこちから聞こえるようになった。

 だが、である。驚いたのは彼が去ってから半年後である。なにやら妙に爽やかな風がその企業の中に吹き、従業員の顔も柔和になってきた。そのうち、若きリーダーがファッション分野ではトップのトップのセンスを持つ企業と労働組合同士が話しをし、勉強会を開始した。社内は活性化した。本店の大改装や抜擢人事や近くの空きビルを使っての新しい実験も行った。「何が起こったのか?」、マーケットは驚愕した。

 しかし、僕は知っていた。「昼行灯」「デクノボー」と呼ばれた前・社長が、様々な既得権益を持つ役員を道連れに退職していたことを。有能な次期社長とそのブレーンを活かすにはそれしかないと判断したのだ。言うなれば、「静かなクーデーター」「アポトーシス的な全体最適のための死」。だから僕は今でもこの企業に対しては最大限の敬意を感じている。名もない戦士と言う言葉があるが、その前社長はまさしく名も無き戦士、しかし企業を守った中興の祖なのである。

《 やってらーんなーいて言えばいいのよ 》
 既得権益にしがみつく人々が全て悪いとは言わない。人には生活があり、米の飯も食わねばならぬし、子供の学費も払わねばならない。親は介護が必要になってくるし、自分自身も体力が落ちてくる。カネがないのはクビがないのと同じ事。稼がねばならぬ。

 しかし、この議論はややもすれば全てのおける霞が関、永田町、そして企業の失敗の言い訳に似てはいないだろうか。大手企業の社長が数億円の報酬を貰っていようと、それ以上の付加価値を社会に還元してくれるならば安いものだ。問題はそうした付加価値、社会高揚を社会に還元してくれているかを目算できる人間が我々にあまりに少ないことなのではないか。だから、組織は自壊していくのだろう。

…..とここまで書いてきたが、やはり組織は何故自壊するのかの議論は手強かった。一度では終わることはできなかった。また、新しい視点ができたら、「その2」を書くこととして、今日はキーボードを置くこととしたい。

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