《 スタンド・バイ・ミー 》
 年齢なのか、暑さなのか、朝早く目覚めるようになりました。だいたい5時頃、時には4時半。そのまま起きればよいのでしょうが、さすがに平日は仕事中に眠くなるので、もう一度無理矢理寝るようにしています。その代わり、週末や休日は眠ければ昼寝ができますので、目が覚めたらそのまま友人にメールを書いたり、録りだめしていたテレビを見たり、インターネットをしたり、時には仕事をやっつけたりしています。

 今日の日曜日も4時半に目が覚めてしまいました。さすがに夏至をとっくに過ぎて秋分の日も近いので真夏ほど明るくはないのですが、それでも真冬に比べれば明るい。家族を起こさないように(というよりも邪魔されないように)そっと二階のリビングに上がって雨戸も開けないままテレビとDVDレコーダーのスイッチを入れます。実はずっと見よう見ようと思っていた映画を録ってあったのです。映画の「スタンド・バイ・ミー」。ホラー映画の原作で有名なスティーブン・キング氏が書いた「死体」という小説を映画化したもので、ご覧になったかもしれません。

 内容はホラー映画の原作者が書いたとは思えないほどノスタルジックで、しかしとてもシリアスな物語。米国の田舎町の少年四人が汽車にはねられた少年の死体があるという話を聞きつけ、それを探しに2泊3日の旅に出るという、それだけの話です。しかし、とても多くの賞賛を浴びた映画でもあります。まだ何も知らない、無垢と言えば無垢と言えるし、無知と言えば無知と言える少年時代に与える親の影響、家族環境の影響、地域社会の影響、そして友人の影響、そうしたものをちょっとユーモラスな表現を含めて淡々と映像化したものです。

 もう4~5回はみたにも関わらず、最後に狂言回しの役の作家が書く「12歳のあの時のような友人はもう二度とは持つことはできないだろう。絶対に。」という一文が大写しされ、主題曲であるベン・E・キングの歌う「スタンド・バイ・ミー」が流れると涙が出てきました。若い時の、少年少女時代の友人とか時間というのが如何にその後の人生に与えるかを自分に当てはめたときに出てくる涙でしょうか。

《 ニュー・シネマ・パラダイスと札幌 》
 私は決して映画を多く見る方ではないのですが、「ニュー・シネマ・パラダイス」というイタリア映画も素晴らしいものでした。これは6-7回は見ているでしょうか。しかし、見る度に見方と申しますか、視点が変わっている自分がいます。最初に見た時はラストシーンの素晴らしさに感動したのですが、先日見た時は故郷から都会に出て行こうとする主人公に、もう一人の主人公である老人が「ふるさとを出たら二度と戻るな。何があっても絶対に戻るな。戻ってきても私はお前には会わない。戻ってきてもお前の覚えているふるさとは、そこにはない。でも、何十年も経ってからかえってきたら、お前の覚えているふるさとはそのままお前を迎えてくれるだろう。わかったな?、行け!」と主人公を突き放すように送り出します。不覚にも今回はここで涙が出てしまいました。

 佐々木のふるさとは北海道は札幌です。誰よりも札幌を愛している自信があるし、仕事で東京の街角をふっと曲がった時に札幌の匂いがすることがあって、一瞬気を失いそうになります。しかし、出張で時々行く札幌は残念ながら自分にとっての札幌ではない。それは建物が変わったり、新しい道が出来たり、なじみの店がなくなっていたりとかそういうこともあるのですが、そういう具体的ではない違和感、「ここには自分の居場所はない」という違和感をいつも感じます。それはうまく言えないのですが、喪失感というかなんというか、表現のしにくい感情です。

 しかし、「ニュー・シネマ・パラダイス」の中の台詞のように、数十年経ってから札幌を訪問したならば、きっとふるさとは自分を優しく迎えてくれたのでしょう。少々ひねた言い方をすれば、それは完全に自分の根っこが札幌から無くなった段階での訪問であれば、純粋な想い出だけを持ち込んでの「よそ者」としての札幌を見ることができたのだと思います。

《 退屈なるこの人生 》
 色々な生活の節目節目に見て、その都度、感動を新たにする映画。また、自分に自信が無くなったときに読み返しては元気を貰える本。そうしたものはなんと貴重なものかと今朝、痛感しました。前に、この「余談」で書いたことがありますが、夏目漱石の草枕の冒頭は、こういったことをとても簡潔に表してくれていて、素晴らしい文章だと思います。

山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。

智(ち)に働けば角(かど)が立つ。
情(じょう)に棹(さお)させば流される。
意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。
とかくに人の世は住みにくい。

住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。
どこへ越しても住みにくいと悟(さと)った時、詩が生れて、画(え)が出来る。

人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。
やはり向う三軒両隣(りょうどな)りにちらちらするただの人である。
ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。
あれば人でなしの国へ行くばかりだ。
人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束(つか)の間(ま)の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。
ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降(くだ)る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故(ゆえ)に尊(たっ)とい。

(夏目漱石「草枕」より)

《 おもしろき こともなき世に おもしろく 》
 さて、と振り返って思うのは自分は果たして「この退屈なる人生を豊かにする何かを生み出しているのか否か」という命題。時にはYESでもあるし、時にはNOでもあり、要するによくわからないというのが本音であります。

 そして自分の調査研究対象である流通業や外食業、サービス業を見ていて同じく「人生を豊かにする何かを生み出しているのか」と問われると、以前のように素直にYESとは言えなくなっている自分を感じます。

 もちろんビジネスは基本的には利潤を出すことであり、自分のプレゼンスを経済的にも能力的にも示すことであります。だからこそ、プライベートな企業を株式公開すると、創業者利得を手にできる。起業がいまだに人気があるのはそこにあるのでしょう。

 しかし、利潤や自分のプレゼンスと同等かそれ以上に、非常に険しい山を登っても起業しようと思うのは、「人生を豊かにするのに自分は何をなせるのか」という志なのだと思います。だからこそ、あれほどリスクの高い起業と経営の継続をやっていけるのでしょう。こんなことはここで書くのはふさわしくないかもしれませんが、合法・非合法スレスレのことをやる方が経済的にはメリットが高いのかも知れません。だから、この志は道徳心とセットになってのものであると言えます。

 何度もそのお店に行きたいと思うか、同じ買うならばまずあの店に行ってみようと思うか、どうせ呑むなら遠いけどあそこに行こうよと思えるか。その鍵は全て、夏目漱石が言うところの「どこに引っ越してもつまらぬ退屈な人生をのどかにし、豊かにしてくれるか」にかかっているように思うのです。

 けれども、私の探し方が下手なのか、はたまた志を失ったお店が多いのか、「ここに行きたい」と思うお店には、これだけ星の数ほど店があるというのになかなか出会わない不思議。もっと興奮したいのに、もっと感動したいのに、でも、結局おなじみの店に行ってしまう私は既に新しいものを否定するだけの中高年後期にはいってしまったのかと考え込んでしまいます。

 今日の「余談」に結論はありません。ただ、なんとなくそう思ったものですから。

 昼間の暑さは相変わらず耐えられない状況ですが、日が暮れた後の風には、なんとはなしに秋の気配を感じます。我が家の風呂場の窓から聞こえる虫の声も、セミから秋の虫に変わりそうな雰囲気です。ふるさとの札幌は夏が終わり、あっという間に秋が来て、長い長い冬が来るのでしょう。静かな気持ちのする日曜日の朝です。

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