- 前回のコラムで経営承継と企業の永続性について書いた。読者からいただいたリアクションを読むうち、参考になりそうな二つの例が蘇ってきたので今回はそれを書くこととする。
- ひとつめはユニクロだ。一般的に衣料・アパレルは流行の影響を受けやすいため、その話題性も短命に終わるケースが少なくない。そのなかでユニクロは創業から77年、カジュアルロードサイド店として42年、トップランナーを走り続けている。しかも、日本小売業の「夢」であった世界展開を確実なものとし、英国で初めて手がけたのも25年前だ。前回コラムの反応で最も多かったのが「ユニクロは今後どうなるのでしょうか?」だった。
- ユニクロのトップ柳井正さんには御子息がいるそうで、その方々への経営承継に興味をもっている読者が多いようだ。しかし、筆者の視点はそこにはない。1997~1998年頃に入社した「ユニクロ四人衆」、これがユニクロの長い成功を形作った理由の一つであると考えている。ユニクロ四人衆とは、澤田貴司さん、玉塚元一さん、森田政敏さん、堂前宣夫さんの四人だ。前職はいずれもバラバラのこの逸材がどういう経緯でユニクロに入社することになったか、お恥ずかしながらもう失念してしまった。ただ、この四人の発想は天才柳井正さんとは違う意味で近代的で新鮮であった。その一つが「キャンパス」と呼ばれる小郡にあった、まるで大学のような本社だ。広い敷地に明るい環境、自由な議論を育むような本社で、初めて足を踏み入れた時にはその比類なさに驚愕した。


- ほどなくして、ビジネス上の理由から東京に本部は移転するが、「四人衆」の才能はここから遺憾なく発揮される。それが1998年秋の「フリース」の販売だ。「フリース」はペットボトルに使用されるのと同じポリエステル(ポリエチレンテレフタレート)で、それまではアウトドアアイテムの名門ブランド「パタゴニア」「モンベル」などだけで販売されていた製品で圧倒的な温かさを維持する衣料だ。ただ、極めて高額で、販売価格は当時確か2~4万円だったと記憶する。そのフリースをユニクロは1,900円で発売した。これを可能ならしめたのは、素材メーカーとしての東レ、調達・縫製・物流担当としての三菱商事、そして製品企画とマーケティングのユニクロのタッグだ(ちなみにこのタッグは後にヒートテックや数々の機能製品を生み出す)。資料がないため推定に過ぎないが、総合化学メーカー旭硝子出身の玉塚さん、伊藤忠商事出身の澤田さんがアイディア出しに関与していたと推測する。ユニクロフリースは爆発的な売れ行きとなり、ある種の「国民着」となった。当時、子供が小学生だった筆者は参観日に行くと父親はほぼ100%ユニクロのフリースを着ていたことを鮮明に覚えている。そして、この成功を見てイオンや多くの総合量販店がフリース市場に参入することとなる。


- 「四人衆」の存在が興味深いのはここからだ。絶大な人気を博したフリースだが、他社の参入もありその独自性は徐々に失われ、1999年下期から業績は伸び悩み、2000年始めに業績の下方修正を発表する。同年にカラーバリュエーションを増やすことで拡販を目指したが、必ずしも消費者に受け入れられず、むしろユニクロのフリースを着ていることを「ユニバレ」と呼ばれるなど、ブランド価値も低下し始めた。業績の足踏みに加え、元々、起業を考えていた澤田さんは柳井さんからの社長就任打診を受託するかどうかに悩み(これは後年、澤田さんが取材に答えた内容)、結果的には2002年5月に辞任する。そして玉塚さんが社長に就任する。その後、進出していた英国の事業強化や中国事業の開始、ハイエンドアパレルのTheory社への出資、高品質低価格のカシミア素材商品の展開などに取り組むが、1998年のユニクロフリースのような大ヒットは生まれず、また海外展開もまだ経験不足であったこと、ユニクロフリースの在庫過多もあり、玉塚さんは2005年に社長を辞任する。また、CFOとして財務基盤を固めたあと英国事業の責任者であった森田さんも2004年に退任した。堂前さんは一度英国などで不首尾に終わった海外事業の責任者として成功させ、良品計画(無印良品)に入社した2019年の前、多分2016年頃に退任したと記憶している。


- 筆者が興味深く感じるのは、1998年のユニクロフリースの大成功以降、決してユニクロのチャレンジは順風満帆ではなかったことだ(ex. ロングダウンジャケットの洗濯問題、野菜市場参入、靴販売など)。新規事業や新しい取組が上手く行かなかった場合、執行責任者は何らかの責任を取って、場合によってはそのポジションからおりねばならないことがしばしばある。もしユニクロが柳井正さん一人の執行責任者であったならば、そういう世間の声も受けた可能性があるだろう。しかし、柳井正さん本人+四人衆、つまりは「五人の柳井正」がいたことが、積極経営につきまとう失敗やダウントレンド、見込み違いの責任を取る人物を数多くもつこととなり、ユニクロの長きにわたるトップカンパニーとしての地位を作った一因なのではないかということだ。実際、これを書いている時点でユニクロには取締役が11人、監査役が5人、執行役員が60人いる。大企業はカバー領域も多いため執行役員が多いのは当然とは言え、筆者の勝手な推測としては「五人の柳井正」を経験したユニクロが承継人材のバラエティを多く持つ強さを経験したからではないかと考えている。そして何よりも興味深いのは、「ユニクロ四人衆」の存在は承継人材で悩む企業は多いにもかかわらず、既に忘却の彼方に行っていることだ。なお、ここで述べたことはあくまでも筆者の「推測」「推定」に過ぎず、確たる証拠があるわけではなく、同時代を実際に見てきたことに基づく考えに過ぎないことを申し添えておく。



- ふたつめはダイエーだ。ダイエーは中内家の創業経営でありながら、早期の段階で株式上場をしている。株式上場は少数株主がいるため、創業家の意志決定と背反する場合も多いため、上場を好まない企業も少なくない。にも関わらずダイエーが長くトップカンパニーとして君臨した理由はユニクロのそれとは違う所にある。それがAFS=朝日ファイナンスサービスとDHC=ダイエーホールディングコーポレーション(社長:中内潤氏)の二社の存在だ。
- この二社の性格は極めてユニークだ。まずそれぞれともにダイエー本体が50%ずつの株式を保有している。勘の良い人は気づくと思うが、50%の保有=連結非対象会社である。と同時に、この二社の主な業務は資金調達を行う金融会社だということだ。1990年代までのダイエーは連結財務諸表上の有利子負債は7,000億円程度だったが、連結非対象会社二社による調達額を含めたグループとしての有利子負債は2.6兆円(諸説あり)と三倍以上あったことが後年明らかになった。今の時代、この数字だけ見るとリスクのみを感じるかもしれないが、有利子負債は当然「貸し手」がいて成り立つものであり、それだけの「与信」を金融機関サイドが与えていたということと同義である。つまり、2.6兆円の借入金を得ることができるだけの企業集団だとダイエーは見なされていたことになる。


- 特に再度強調したいのは、AFSとDHCが50%ダイエー保有であり、連結対象「外」だったことだ。これをどう捉えるかは難しい所だが、少なくとも時代によってコンプライアンスやガバナンスの評価は変わっていくことを考えれば、当時は問題がなかったと言えるだろう。しかし、それに疑問を持つ人もおり、その一人が「カリスマ」を執筆したジャーナリスト佐野眞一さんであった。また、平成バブル崩壊により、不良債権処理に汲々とする中、いわゆる「要注意先」と判断されうるところからの資金回収を急がざるを得なかった金融機関にとって、AFSとDHCの存在、および、その借入金に対して急速に態度を変えざるを得ず、「産業再生機構」という組織にダイエーの管理監督を任さざるを得なかったことも、時代の変化によるものだったろう。なお、これらの後のダイエーの経営再建についてはダイエーの重役であった高橋義昭さんの「ダイエーの経営再建プロセス」に詳しい。一読を薦めたい。




- これ以外にもダイエーは「パシフィックリム(環太平洋)構想」を実現化しようとしていた。これは日本、米国、アジア諸国を電子データ交換で接続し、サプライチェーンを構築し、米国小売業の買収、人材医育成機関の設立(1998年の流通科学大学として実現化)などを行う構想だ。後継人材を国内だけでなく、世界に求めていたという点で、現在の縮小均衡的な流通・小売業界の発想を遙かに超えていると言えるだろう。
- いささか今回のコラムは筆者の想像の翼を広げすぎ、「妄想」「想像」の色が強すぎたかもしれない。しかし、「後継者がいないんですよ」と前回コラムに反応を下さった方々に、見るべき視点を多様化してみてはどうだろうかという意味で今回の思い出話をしてみた。筆者は現在、NHKで「欲望の資本主義」や「世界カルチャー史 欲望の系譜」などを制作した方のリモート講義を受けている。内容は、アダムスミス、ケインズ、マルクス、シュムペーター、ハイエクという五人の偉大なる経済学者の思想についてだ。丸っきり学説としては異なる五人だが、「国民の生活を豊かにするための経済学」という視点からはなんら変わることがないことを講義から学んでいる。むしろそれらをイデオロギーや学説対立という形で私利私欲のために利用しているのは後世の人々だと感じる。歴史は常に勝者によって書き換えられるものだが、まずは冷静に歴史を振り返ってみることの重要性を感じている。
(了)
