• 新聞を開けば、相変わらず暗い記事が目に付く。しかし、振り返ってみれば明るいニュースがなかったわけではない。10月には東京理科大学の硤合憲三栄誉教授がノーベル化学賞を受賞した。さらに10月20日には種子島宇宙センターからH3ロケット10号機が打ち上げられ、日本主導の火星衛星探査機「MMX」を予定どおり軌道へ投入。翌21日には探査機の健全性も確認された。日本は宇宙開発で失敗ばかりしているように言われるが、「はやぶさ」は2010年、「はやぶさ2」は2020年に小惑星の試料を地球へ持ち帰った。なかなか大したものだと思う。
  • 一方、宇宙開発先進国の米国にも大きな悲劇がある。1986年1月28日のスペースシャトル「チャレンジャー号」事故だ。打ち上げ73秒後に機体は空中分解し、7人の乗員全員が亡くなった。原因となった固体ロケットブースターのOリングには以前から異常が確認され、打ち上げ前夜にも低温による危険性を技術者が訴えていた。それでも、それまで問題を抱えながら飛行を繰り返し、重大事故にならなかったことから、異常が次第に「この程度なら大丈夫」と受け入れられていった。
  • こうした現象には「逸脱の正常化」という名前が付いている。本来なら「おかしい」ことでも、何度か繰り返して何事も起きなければ、「これくらいは普通」と感じるようになる。災害時などに「今回も大したことはないだろう」と危険を過小評価する「正常性バイアス」と少し似ているが、前者は個人というより組織全体の「普通」の基準が少しずつずれていくところが怖い。
  • そして、これは企業経営でもかなりの確率で顔を出しているように思う。筆者自身、「誰も本当は望んでいないのに、全員が『他の人が望んでいるのだろう』と思って話が進んでしまう」という場面を何度も見てきた。そこで一人だけ「いや、私は反対です」と言えば、「空気が読めないヤツ」と思われるのではないかと黙ってしまう。日本でよくいう「空気を読む」という行動の、あまりありがたくない一面である。
  • 円安や物価上昇、人手不足に伴うコスト増、可処分所得の伸び悩み、厳しい競争環境など、2026年も企業によっては経営環境が決して楽ではない。しかし日頃企業を調査していると、業績が伸び悩んでいる原因を、社内の誰も分かっていないという会社は意外に少ない。「あの商品政策はもう限界だ」「あの店舗は閉めた方がいい」「あの事業は続けても利益が出ない」「ここで変わらなければいけない」。そう考えている役職員は結構いる。にもかかわらず、会社としてはなかなか変わらない。なぜなのか。
  • 組織論に詳しい友人にそんな話をすると、こんなふうに整理してくれた。「第一段階:個人はおかしいと思っている」「第二段階:でも、変なヤツだと思われそうだから言わない」「第三段階:誰も言わないので、これでいいと組織が思い始める」「第四段階:おかしな行動が日常になる」「第五段階:ある時、そのおかしな行動がトラブルを起こす」。なるほど、実に分かりやすい。
  • 特に二番目の「分かっているけど言わない」は厄介だ。社員が問題を知らないのではない。知っていても、「言っても変わらない」「言えば自分が損をする」「面倒なヤツだと思われたくない」と口にしない。それが何度も繰り返されるうちに、「言わないこと」自体が組織文化になる。組織論では、こうした状態を「組織的沈黙」と呼ぶそうだ。難しい名前を知らなくても、多くの会社で「ああ、あるある」と思う光景ではないだろうか。
  • さらに面白いのは、自分が黙っているだけでなく、「他の人は賛成している」と勝手に思い込んでしまうことだ。会議で誰も反対しないので、「自分だけがおかしいと思っているのだろう」と考える。ところが、隣の人も、その隣の人も同じことを思っているかもしれない。つまり全員が、「自分だけが少数派」と勘違いしている。これにも「多元的無知」という立派な名前があるらしいが、要するに「みんなの本音を、みんなが読み違えている」のである。
  • そのまま意思決定まで進むと、さらに奇妙なことになる。有名な話に、家族全員が本当は出掛けたくなかったのに、「他の家族が行きたそうだから」と全員が賛成し、結局誰も望んでいないアビリーンという場所に遠出をしてしまった、というものがある。これを「アビリーン・パラドックス」と呼ぶそうだ。企業に置き換えれば、誰も望んでいないのに、全員が「他の人が望んでいる」と思い込み、組織として誰も望んでいない意思決定をする。笑い話のようだが、経営会議では案外起きているのではないか。
  • そして一度、「どうやらみんな賛成らしい」という空気が出来上がると、今度は反対材料そのものを見なくなる。「ここまで決めたのだから」「役員会も通ったのだから」「社長も賛成しているのだから」と、正しい答えを探すことより、組織として意見が一致していることの方が大切になっていく。これを「グループシンク(集団浅慮)」と呼ぶ。難しい説明はさておき、個人で考えれば「ちょっと待てよ」と思うことを、集団になるとかえって考えなくなる現象だ。頭の良い人を集めれば、必ず頭の良い組織になるとは限らないのである。
  • こうしたことの土壌になるのが「心理的安全性」の不足なのだろう。最近は「心理的安全性の高い職場をつくろう」と、あちこちで聞く。しかし、ポスターに書けば出来上がるものではない。「何でも自由に言ってください」と社長が100回言っても、若手が一度「社長、それは違うと思います」と言った瞬間に社長が不機嫌になり、その後の人事で冷遇されたら、100回分など一瞬で吹き飛ぶ。心理的安全性が本当に試されるのは、上司が聞きたくない意見を部下が言った時なのである。
  • とはいえ、何でも上司のせいにすればよいとも思わない。「それで本当に利益が出るの?」「その数字の根拠は?」と聞かれただけでヘナヘナと意見を引っ込めるなら、部下側の勉強不足、論理構成力不足ということもある。異論を言う自由と同時に、異論を言う側にも反論に耐えるだけの準備と責任が必要だ。「心理的安全性」とは、好き勝手なことを言っても叱られない職場、という意味ではないはずだ。
  • もう一つ厄介なのが、「誰かがやるだろう」である。営業は「品質管理が見るだろう」、品質管理は「製造が知っているだろう」、製造は「役員まで報告済みだから経営判断だろう」、役員は「担当部門から重大な警告がないから大丈夫だろう」と考える。全員が自分の仕事をしている。全員悪人でもない。しかし誰も「自分が止める人間だ」と思っていない。これにも「責任の拡散」という名前がある。
  • ここは「社員にもっと当事者意識を持たせろ」という精神論だけでは解決しないだろう。誰が最終的に判断するのか、誰が止める責任を持つのかを、組織としてはっきりさせる必要がある。全員に責任がある、という言葉の聞こえはいいが、下手をすると「結局、誰にも責任がない」と同じ意味になってしまう。
  • 色々な企業不祥事が起きるたびに、「悪い経営者がいた」「悪い社員がいた」と説明される。しかし、それだけで片付けると本質を見誤るように思う。一人ひとりは「自分は会社のために働いている」と思い、「何かおかしい」と違和感を持っている。それでも発言せず、他人は賛成していると誤解し、責任は誰かが取ると思い、昨日まで事故がなかったから今日も大丈夫と考える。その積み重ねの末に、「善良な社員が集まっているのに、組織として不適切な方向に進む」という奇妙なことが起こる。
  • さて、筆者がかねがね思っていたこの話を同僚にすると、「うーん、そうですかねえ。それを言うなら『組織の善意、個人の悪意』じゃないですかぁ~」と返された。法人はルールや規則によって悪意を排除するよう設計されている。ところが、職階や地位、面子、自己保身などを持つ個人が、その仕組みを歪めるのではないか、というのである。なるほど、それも一理ある。
  • とすれば「個人の善意、組織の悪意」というより、「個人の善意が、組織の仕組みによって悪い結果へ変換される」という方が正確なのかもしれない。同時に、その組織の仕組みを歪めるのもまた個人である。「個人の善意、組織の悪意」と「組織の善意、個人の悪意」。丸っきり反対の言葉なのに、同じ現象の表と裏を語っているようで面白い。
  • ではどうすればよいのか。「心理的安全性を高めましょう」と唱えるだけでは足りない。経営者は、異論を言った人が本当に不利益を受けない仕組みをつくり、会議では「賛成ですか」ではなく、「この案の一番危ないところは何ですか」と意図的に反対意見を拾う。そして問題が起きた時には、「誰かが止めるだろう」ではなく、誰が止める責任を持つのかを明確にする。異論を言う側も、空気に逆らうだけでなく、数字と論理を持って発言する。それくらいまでやらなければ、組織の「空気」は変わらないのだと思う。
  • 「これではいけない。変革が必要だ」と真剣に考えている人は、多くの会社に必ずいる。経営に必要なのは、その少数の声を「空気が読めない意見」として消すことではなく、どう拾い上げ、増幅し、組織の意思決定へつなげるかではないか。善意ある個人を集めるだけでは、善い組織は出来ない。善意が沈黙せず、異論として表に出てくる仕組みまでつくって、初めて「組織の善意」になるのだと思う。

(了)

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